【公式】山口県萩市笠山の萩ガラス工房

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HAGI-GLASS

幕末の萩ガラス

維新の志士たちも愛した復刻の萩硝子

STORY

今に甦った幕末の萩硝子

万延元年(1860年)、長州藩の科学者である中嶋治平は、萩の地で硝子製造を開始。
江戸の切り子職人を招いての優れた技術と、萩ならではの水晶石を原料とした透明感のある美しさは、
朝廷からも高い評価を受けていました。かの高杉晋作・大村益次郎・周布政之助ら志士たちもそれぞれに「萩切り子グラス」を愛用し、酒やワインを口にしていたといいます。

しかし萩硝子は施設の焼失・激動の世にまみえわずか数年でついえることになります。
立役者・中島治平の死後は再興されることなく、以後永きにわたって忘れられていました。

150年の時を経た平成の今、
萩ガラス工房は激動の歴史に埋没してしまっていた幻の「萩ガラス」を復活させました。
先駆者・中嶋治平の残した古文書や記録を紐解いて甦った萩ガラスの世界をご覧ください。

高杉晋作グラス

高杉晋作グラス

江戸時代末期の日本では製造されていなかった10面カットの晋作グラス。

このデザインは当時のヨーロッパの影響を強く受けたと考えられています。新しいもの好きの晋作の性格にフィットしたのでしょうか。

福田俠平に贈った自画自賛と伝えられる一幅に、このグラスで酒を呑む自分の姿を描いています。

萩城下で、戦国時代より毛利家に仕えてきた長州藩の名家の長男として誕生。
19歳で松下村塾の入塾、ここで生涯の師「吉田松陰」と出会う。「知識は物事を実践するためにある」という松陰の教えを受け、幕末長州藩を倒幕に方向付けた立役者となる。士分・百姓・町人を問わず、志ある人々を集めて奇兵隊を結成、幾度の戦いにも勝利をおさめる。慶応3年、王政復古目前に肺結核のため死去。享年29歳。

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と伊藤博文に言わせたほどの素早い行動力の持ち主。
その一方では、三味線や唄をたしなむ風流人であった。

大村益次郎酒杯

切り子の基本文様のひとつ「霰文様」が見事に施された盃。

緻密な職人技の光る逸品です。
益次郎は1862年(文久2年)に藩主 毛利敬親からこの盃を賜りました。普段はあまり酒を嗜まない益次郎も、この盃ではありがたく、美味しく酒を口にしたと伝えられています。

萩城下で、戦国時代より毛利家に仕えてきた長州藩の名家の長男として誕生。
周防国の医師の家に長男として生まれる。一時「村田蔵六」と称する。
蘭学医の出であるが、西洋の兵術などの才能を桂小五郎に買われて軍隊の指揮を任される。
長州征伐と戊辰戦争では長州藩兵を指揮し、長州軍勝利の立役者となった。明治維新後は、文字通り軍権の全権を担い、軍隊の西洋化をすすめ、日本陸軍の礎を築き近代兵制の基礎を作った。


明治2年、攘夷派による襲撃を受け、その傷がもとで死去。享年46歳。
性格は頭脳明晰で合理的な思想であるが、堅物で人付き合いが得意でなく反感を買うことも多々あったと言われている。
東京靖国神社に銅像がある。

周布政之助ワイングラス

長州ファイブを英国に密航留学させるなど、幕末の長州を語るには欠かせない、有能な政治家であった政之助。

一方では無類の酒好きで、お酒にまつわる失敗談は尽きなかったと言われています。政之助の次男・公平氏が保管していた遺品のグラスには、ワインの澱が残っていました。

萩藩大組士68石の周布吉左衛門の五男として生まれる。
藩校明倫館に学び、天保の改革を行った家老・村田清風の路線を継ぎ、財政再建・軍政改革・殖産興業など藩政改革に尽力した。


実直な人柄から人望を集め、尊王攘夷を掲げて藩政の陣頭に立つ。桂小五郎や高杉晋作ら、吉田松陰の薫陶を受けた若い人材の登用に熱心だった。

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